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社長メッセージ

考えるヒントを考える(8)

 前回の「考えるヒントを考える」で私は、「13号地」という名称が、いかにもフジテレビにふさわしい、お台場風で、原色感あふれ、粋で、恰好よく、と記した。予想はしていたが、このことに不同意の反応が少なからずあった。「13号地」とは埋立地だから格下だ、一方、「臨海副都心」は東京都指定だから格上だというのだが、野暮もいいとこだ。都が定めた副都心が臨海を含め七つあるのをご存知か。新宿、池袋、渋谷、上野・浅草、錦糸町・亀戸、大崎、臨海の七つだが、これらが副都心だからといって、どれ程の意味があるというのか。私が学んだ中学、高校は横浜港を見下ろす高台にあったが、そこから品川、芝浦方面を遠望すれば、その先、遥か「13号地」の「お台場」は江戸前の粋の中にあった。だから、フジテレビは粋で恰好よくなければいかんのだ。野暮にはわかるまいが、これは認識論の問題だ。

 そのフジテレビがこのところ余り恰好よくない。長期に及ぶ視聴率の低迷からなかなか脱却できず、その原因をめぐり、分析、解説、穿鑿、はては推理、推測、診断までもが喧しい。だが、私はこの類のものに対し、いつも思うのだが、フジテレビの視聴率が悪いからといって、何か社会的に迷惑をかけているのか、といつも思うのだ。無論、株主等投資家、取引先などの利害関係者に甚大な迷惑をかけているのは間違いない。しかし、だからといって、それ以外の利害「無」関係者にフジテレビの視聴率低迷がいかなる迷惑をかけているというのか、余計なお世話ではあるまいか。民間放送の責務である、公共性・公益性の観点からしても、視聴率の低迷が公共性に反し、公益を害するとは、無理無体な論だ。フジテレビの視聴率が悪いことで、一番迷惑をうけているのは、実はフジテレビ自身なのだ。かく考えれば、他者からアレコレ言われたことを一々、考え悩む必要もヒマもないわけで、あくまでも、フジテレビ自身が放送機関として、自主的・自律的に考えなければいかんのだ。今のフジテレビに必要なのは、視聴率低迷の原因を自分自身の頭で考え抜き、激しい頭痛と吐き気がするくらい考え詰めることだ。活路は必ずある。

 現在が困難な状況にある場合、まず、その困難な状況を合理的に理解すべきなのだが、これがなかなか難しい。だが、考えるヒントはある。過去のある時点にまで遡り、その時点での将来、即ち、今である現在の困難な状況を予測、予見できるか否か、もし、今の状況を予測、予見できるような時点が過去にあったとすれば、その時点に立ち帰ってみると、いろいろなものが見えてくる。これは、つらい不愉快な作業だが、現在の困難な状況を合理的に理解する一つの方法ではある。フジテレビのニュース・報道分野でいえば、「脱スーパータイム」、「脱スーパーニュース」の方針が打ち出された時点がそれだろう。「スーパータイム」は民放報道機関が、商業ジャーナリズムとしての宿命、視聴率取るべしの宿命を背負い、視聴率20%以上を記録したフジテレビの大型ニュース番組だ。だから、「脱スーパータイム」という以上、「脱スーパータイム」番組は、視聴率はもはや、いらない、不要ということになる。この時点で、「ニュース・報道番組は内容がよければ、視聴率はどうでもよい」というイデオロギーが成立する。この「正義の体系」は、小利口な小官僚が、如何にも好きそうな大変心地よいもので、のみならず感染力が極めて強いがために即座に蔓延する。某ニュース・報道番組の視聴率が悪かった場合、その番組の「正義の制作者」は、「視聴率は取れなかった、だがしかし、内容はよかった」という「正義」を堂々と振りかざすことが可能になる。つまり、ここでは視聴率が悪いことが「正義」に化けるのだ。そして、このイデオロギーが更に過激化すると、ニュース・報道番組で視聴率を取ること、視聴率を取ろうとすることがまるで「正義ではない」かの如くなる。視聴率を取ったことのない半端、視聴率を取ることに責任を負ったことのない生半可に限って、ニュース・報道番組で視聴率を取ること、取ろうとすることが、あたかも「罪悪である」かの如き「堂々たる正義」を吐きたがるものだが、笑わせてはいけない。その「堂々たる正義」も一皮むけば、赤面モノであることは、ご当人が一番わかっているはずだ。なぜなら、ニュース・報道番組で視聴率を取ることが如何に難儀であるかをわかっているが故に、その難儀に立ち向かうのを避ける免罪符に、「ニュース・報道番組で、視聴率を取ろうとすることは正義ではない、罪悪だ」を、掲げているにすぎないからだ。ここ迄くれば、民放TVジャーナリズムの立派な腐敗だろう。

 だが、私の主旨はもっと先にある。ニュース・報道番組で視聴率を取ることの難儀さは、ニュース・報道という論理的・理性的な世界を、TVメディアという感性的なメディアで伝えなければならないことの難しさによるのだが、TVジャーナリズムがそのメディア特性を最大限に活かすことが当然である以上、理性と感性のこの激しいぶつかり合いは、ニュース・報道番組の現場に常に、強い緊張感と高い倫理性を求め、更なる困難を増幅させる。逆に言えば、強い緊張感と高い倫理性を持たないTV報道人は視聴率を取ろうとするニュース・報道番組で取材、制作する資格がない、ということだ。TVジャーナリズムで視聴率を取ることの過酷さとはそういうものだ。報道倫理の根幹は「自律」だということを改めて膝を正し、思い知るべきだ。

2017年3月17日

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