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社長メッセージ

考えるヒントを考える(10)

 前回の「考えるヒントを考える」に対し、ある方から「気迫のこもった檄文」という評をいただき、不意をつかれた思いがした。私は「檄文」などを記すつもりはなかったし、そのつもりもない。フジテレビの後輩諸氏への激励が、私の不調法で「檄文」ととられたのかとも思い、間が悪い。一方で、ある著名な方から葉書でいただいた評言の中に「(読んで)思わず涙ぐんだ」とあり、身に沁みた。この「考えるヒントを考える」も、春と秋の年二回、TVジャーナリズムについてアレコレ考えてきたが、回を重ねるにつれ、文章が不必要に粘っこく、嫌味ったらしくなってきたような思いもあり、私の顔写真も、「ケチな面なぞ見たかねえ」などと言われる前に、やめた。

 前回、私は「ニュース・報道番組は内容がよければ、視聴率はどうでもよい」というイデオロギーは、一皮むけば「赤面モノの正義」であり、民放TVジャーナリズムの立派な腐敗だ、と記した。このことに、「それでは、ニュース・報道番組は視聴率がよければ内容はどうでもよいのか、視聴率至上主義はけしからん」という異論があった。「視聴率至上主義」という不思議な言葉については後述するとして、御当人は論理学の演習問題でも解いたつもりだろうが、さあどうだ、文句あるか、というこのての異論は質が悪い。何故、タチが悪いのか。それではお訊ねしますが、ニュース・報道番組で「内容がよい」とは一体どのような内容なのか、明解に答えられますか? 明解に、とは絶対性を持った唯一の正しい解答ということだ。

 この問いに対し、たとえば、民放連報道指針風に解答すれば、「内容がよい」ニュース・報道番組とは、民主主義社会の健全な発展のため、公共性、公益性の観点に立って事実と真実を伝えることを目指している番組、という風になるが、評価基準値がデカすぎて実存的な答えになりえない。そこで、次のように考えてみる。現在、放送されているニュース・報道番組で、「内容がよい」とされる番組が仮にあったとする、と、その番組に対しては必ず一方で、「内容がよくない」という多くの評価がある、のは周知の事実だ。ニュース・報道番組で「内容がよい」という絶対的な評価はありえず、あくまでも相対的なものなのだ。そして、当然のことだが、「内容がよい」という絶対的評価が成立するのは自由な民主主義社会ではありえないし、否、自由な民主主義社会だからこそありえない。米国のメディアの多様な在り様は、自由な民主主義社会での健全なジャーナリズムは相対性にあることを示している、と考えるべきだ。その象徴が、「信教・表現の自由を侵す法律を定めてはならない」とする合衆国憲法修正第一条なのだが、欧米の精神的規範の根幹をなす、このあたりの消息は日本人には、なかなか理解が難しい。逆に、「内容がよい」という絶対的評価が成立するのは北朝鮮のような独裁国家でのニュース・報道番組だけだ、という反証のほうが理解容易だろう。自由な民主主義社会での「内容がよいニュース・報道番組」とはあくまでも相対的なものであり、「内容がよいニュース・報道番組」の絶対的な定義はありえない。

 だから、あるニュース・報道番組の内容がよいか否かを断じるのは不可能であり、危険だ、だから、「視聴率というもの」が必然的に必要なのだ、と考えるべきだ。なぜなら、視聴率こそ、相対的評価の唯一の合理的方法だからだ。だが、奇怪なことに、合理精神を意図的に嫌う見識振った小才子は、視聴率のみで評価するこの方法を「視聴率至上主義」に陥る危険がある、として敵視する。この「視聴率至上主義」という言葉は、誰が考え出したか、実に不思議な言葉だ。文字ヅラ通り、視聴率を至上と考えるこの主義は、良識あるTV人間なら嫌悪、唾棄すべきけしからん社会的不義だ、というのだが、ちょっと待って欲しい。それでは、この「視聴率至上主義」を徹底して貫けば、視聴率を取ることができるものなのか? 言わずもがな、「視聴率至上主義」を徹底して貫けば視聴率が取れるほど、視聴率を取ることは容易なものではない。「視聴率至上主義」に徹し、貫けば必ず視聴率が取れるものであれば苦労はない。TVの制作現場で日々、苛烈な競争をしているTV人間なら理屈抜きでわかるはずだ。だから、この「視聴率至上主義」という不思議な言葉は、「視聴率至上主義」という主義に徹し、殉じても視聴率を取ることは困難だ、と語釈するのが正しい。

 最近は余り耳にしないが、一時、「視聴質」という言葉がもてはやされたことがあった。TV番組を評価するのに、視聴率だけでは不備、不十分であり、視聴率が低くても「視聴質」が高い番組をきちんと評価すべきだ、というのが謳い文句ではあったが、それでは「視聴質が高い番組」とは一体どのような番組なのか、という肝心なところが当然のことながらアイマイで、いつの間にか、流行らなくなった。当たり前だ。仮に、「視聴質が高い番組」をごく普通に「内容がよい番組」と言い換えたとしても、「内容がよい」とはあくまでも相対的なものであり、絶対的な評価、定義はありえない、のは既に考え尽くした通りだ。本来、「視聴率至上主義」に対抗する意味でできたはずの「視聴質」という言葉も、皮肉なことに「視聴率至上主義」同様、逆説としてはあり得ても、そのままでは死語に等しい。だが、こんなことをTV業界内でゴチャゴチャ考え悩んでいる間に、はっと気が付いて、あたりを見回せば、いつのまにか世界はネットメディア社会になっていた、というのが実感だろう。自己批判と自己規制で厚化粧したメディアは衰退する。

2017年9月25日

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